お盆二日目の明け方のこと。久しぶりに、父の夢をみた。
場所は喫茶店。
母と二人で休憩していると、父が私たちの目の前にやってきて、
「一人で〇〇病院まで歩いて行ってきたよ」と、得意気にそう言うのである。
「えええっ!!!一人で?!」 私は思わず驚きの声をあげる。
現実的なことを言えば、父は足腰が悪く、目も不自由で、
亡くなる10年以上も前から、一人でどこかに行くことなど到底できない体になっていた。
それがどうだろう。杖も持たずに腰をピンと伸ばし、一人でしっかり立っている。
にっこりと笑みを浮かべ、何歳も若返ったかのように、顔の肌つやもよい。
「すごい!すごいよ!! 一人で歩いて行ってきたなんて、すごいねぇ・・・」
私は喜びと興奮を抑えきれず、「すごいね!すごいねぇ・・・」と何度も何度も、
ひたすら同じ言葉をくりかえすのだった。
そんな私の驚きっぷりに満足した父は、
静かに椅子に座ると、コップの水に手をのばした。
「氷、入れようか?」 私がたずねる。
「ああ。そうだな」 いつもの口調で父が答える。
私は氷入れの中から、できるだけ大きな、形の良い氷を選んで、
父のコップへと入れた。
トプン・・、トプン・・・
2つの氷で、コップの水があふれそうになる。
なみなみに入った水を、父はうれしそうに飲んでいる・・・

・・・とまあ、こんな感じの夢。
人に話したら、返答に困るような、たわいもない内容の夢だ。
けれど、私にとっては、とてもうれしいものであった。
「〇〇病院まで一人で行ってきたよ」だなんて、
なんとも父らしい、そして私らしい夢だなぁと思う。
父が亡くなって半年くらいの間は、たびたび父の夢をみた。
それは決まって、危篤状態の父が一命をとりとめる、という設定なのである。
「お父さん!お父さん!」と、私が大きな声で呼びかけると、
父が「はい」と返事をし、意識を取り戻すのだ。
体は痩せ細り、鼻には酸素チューブがついたまま。
そんな姿の父と、私は旅行に行ったり、デパートで買い物をしたり、一緒に夜景を見たりする。
そして、自分とともにいる父を、私は夢の中でまじまじとみつめ、
「ああ、よかった。本当に、本当に、よかった・・・」と、
心の底から、振り絞るように、天に感謝するのだ。
そこには、ひとかけらの悔いもない。
私は一切の罪悪から解放され、清らかな喜びに満ち溢れている。
これ以上のしあわせなど、ないほどに。
夢から覚めた後も、しばらくは目をつむっている。
薄れゆく光景を追いかけるように、私は脳裏を隈なく瞬時にたどり、
父が生還するという、奇跡のような喜びの余韻に、ただ一人、じっと浸っていた。
そんなような夢を、いったい何度、みたろうか。
けれど、一年経ち、二年経ち、いつしかぷつりと、みなくなっていた。
自分の心情は何も変わっていないのに、なぜだろう?
それがようやく、満を持していたかのように、再び夢に父が現れたのだ。
お盆二日目の明け方。なんとも不思議な、粋なタイミングである。
もう、痩せ細ってなど いなかった。酸素チューブもしていない。
元気な姿になって現れてくれたことが、私はうれしかった。
とても、とても、嬉しかった。
命は死しても、その存在はなくならない。
むしろ、生きていたころの何倍も、父への思いは、私の中で強まっている。
夢は幻でも、そこで抱いた感情は、本物だ。
これも立派な、父との思い出だと、そう思っている。