藍色の星たちへ

こころの詩を描く旅。

hashile1.jpg


上の姪っ子への誕生日プレゼント。
今年は木彫りシリーズです。

陸上部で毎日頑張っているようなので、走っている姿をイメージして作りました。
黄金の足ー!っていう感じです。






hashile3.jpg



会うたびに、ぐんぐん大きくなっていて、びっくりさせられるのだけど、
無邪気な笑顔は変わらないでいてくれていることに、私は内心、ほっとしています。

今回のプレゼントにも、とっても素直に喜んでくれました。
別れ際「ありがとう~!」と、笑顔で何度も手を振ってくれた姿が、嬉しかったな。







hashile2.jpg



その力強い足で、しっかりと今を踏みしめ、
これからも好奇心を持って、いろんなことに挑戦していってほしいです。






futatsuno_shiten.jpg



先日 NKHのクローズアップ現代で、「樹木希林さん 直筆の手紙」
というのがやっていたのだけども、その番組中のテロップに、

“ 死ぬことは 人の中に生きること ” という言葉があって、
私はこれに、ハッとさせられた。

死生観については、私自身も同じような思いを常日頃から抱いている。
それなのに、なぜそんなに衝撃を受けたのか。

それは私が、遺された側の立場で「死」というものを考えているのに対し、
これはそうではなく、「死に逝く側」から発せられている言葉のように、思えたからだ。

言わんとしていることは、同じだ。
けれど、見ている方向が全く違う。


命尽きようとも、魂は心の中で生き続けるのだと、
人一倍、そう強く信じているくせに、
私自身は、自分が死んだら誰かの心の中で生きるのだ、などとは考えたことがない。
そんなふうに思える相手など、自分にはいやしないのだから、
当然といえば当然のことだ。

いつか自分も、そんなふうに思える時がくるのだろうか。
私が絵に込めた想いは、誰かの心の中で、生き続けることができるだろうか。
そんなことを、ふと思った。






bokuhafu-sen.jpg

『ボクは風船』 ただゆめこ


7年前に描いたオリジナル絵本『ボクは風船』

「Pictbox」という絵本の投稿サイトでずっと公開していたのですが、
このサイトが残念ながら閉鎖されてしまったため、
「絵本ひろば」のほうに、作品を投稿しておきました。

文章が漢字だらけなので、ひらがなに直そうかどうか迷いましたが、
結局そのまま。特に修正などは加えてません。

この絵本は、私にとって、とても特別なもの。
一人でも多くの人に、読んでもらえたら嬉しいです。






watashino_shiawase.jpg



わたしは座椅子で寝るのが好きだ。

背もたれを倒し、アザラシのように突っ伏していると、
どこからともなくミカちゃんがやってきて、必ず背中にのっかってくる。

じんわりとあったかくて、心地よい 重み。

その向こうで、チロが相も変わらず、安心しきって眠っている。

あぁ、これ以上の 何を求めるというのだろう。

わたしの しあわせは、いつだって、

こんなにも、「 シンプル 」だ。






chittanohimawari1.jpg



今夏8月、愛猫チッタの命日のこと。

猛暑の中、お供えする花を買いに、花屋へ行きました。
花を選ぶのには、いつもすごく時間がかかるのですが、この日は違います。

とっても素敵な「ひまわり」をみつけたのです。

ひまわりといえば、中央部分がギラギラぎっしり茶色くて、
その周りに黄色い花びらがついている・・・
というのが、私の中でのイメージでしたが、これはそうではありません。

中央部分も花びらと同系色の濃い黄色。
どぎつさのない、穏やかな印象のものでした。

なんて朗らかで、温かな黄色なんだろう。
私はこの「黄色いひまわり」に、一目で心奪われてしまったのです。

すぐさま手に取ると、他の花をぐるりと見回し、
淡いピンクのミニバラと白い小花を、一緒に添えてみました。

よし!これでいこう!


いつになくスムーズに花を選び終え、大満足です。
レジを済ませ、足早に店の外へと出ると、
私は自分の腕の中にある花束を、確かめるように見つめ直しました。


夏の日差しの下で、「黄色いひまわり」が一層おおらかに、輝いて見えます。
ピンクのミニバラと白い小花を組み合わせたのも正解でした。

我ながら ナイスチョイス!
思わず顔が、にんまりします。

「これならきっと、チッタもよろこぶ。よろこんでくれる・・・!」
私は我慢しきれず、花束を優しく抱きしめ、小さくつぶやきました。




帰り道、自転車です。
ペダルをこぎながら、ふと思いました。

チッタは「黄色い猫じゃらし」のおもちゃが大好きだったよなぁ・・・

口にくわえて私のところまで持ってきたときは、びっくりしたっけ。
あのときの顔。鼻にかかった甘え声。
本当に本当に、かわいかったなぁ・・・


こんなふうに、チッタとの思い出に心地よく浸るのは、
私には珍しいことでした。

楽しい思い出がどんなにたくさんあっても、
私の意識は、自分の「悔い」にばかり、いつも行ってしまうからです。


その「悔い」からほんの一刻でも逃れ、
ただ純粋に、チッタへの愛おしさに、思いを馳せることができた。
私はそのことに気がつき、うれしくなりました。
たまらないほど、うれしくなりました。

ひまわりのお陰です。
「黄色いひまわり」が、チッタとの楽しい思い出を、
自然と彷彿させてくれたのです。


自転車のかごの中で、ナイスチョイスの花束が、
まるで微笑んでいるかのように、コトンコトンと揺れています。
私の心にも、温かな何かが、優しく揺れています。
今のこの気持ちを 忘れたくない。 そう思いました。




chittanohimawari2.jpg



そんなわけで作ったのが、今回のこの木彫り、「黄色いひまわり」です。
色付けを終えた瞬間、ため息が出ました。

・・・あのときの、ひまわりだ。
私だけに見える。私の心に、咲いている。
記憶の中にきらめく、朗らかで温かな、チッタのひまわり。



チッタとの楽しかった思い出を、
自分の生み出した「悔い」に、埋もれさせてはいけない。
この木彫りは、その誓いでもあります。

大切な大切な私の宝物が、またひとつ、増えました。





chittanohimawari3.jpg






yotonare2.jpg



日曜の夜のこと。

テレビのリモコンで番組表を見ていたら、
TVKで「フィッシュストーリー」という映画がやっていて、
他に観たい番組もなかったので、試しに観てみました。


・・・なんてことっ!
いい! すごくいい!! ものすごく、よかった!!!

ユーモア冴える、独特のちょっと奇妙な空気感。
記憶の中を覗きみるような、どこか切なくて、それでいてあったかい感じ。

複数の断片的なストーリーが、ひとつの未来へと一気につながっていくラストは、
清々しいほど気持ちが良く、なんだか嬉しくなりました。




ありとあらゆる出来事が複雑に絡み合って、現在(いま)ができている。

良いこともあれば、もちろん悪いこともあるけれど、
それが最終的に何をもたらすのか、「陽」となるか「陰」となるか、
その本当のところは、そのときになってみなければ、誰にもわからない。

そうであるならば、たとえどんなにつらいことがあったとしても、
いつかはそれが、めぐりめぐって「陽」につながるのだと、
そう信じて日々を過ごした方が、ずっとずっと、いいに決まってる・・・。

この映画は、ネガティブな私さえも、そう思わせてくれました。

劇中の歌もよかった。詞もよかった。ほんと、観てよかった!
心地の良い希望のようなものが、不思議と胸に残ります。そんな映画です。

同じ監督の映画が次の日曜にもまたやるみたいなんで、それもぜひ観ようと思います♪






attakaine2.jpg



あったかい ね。

あったかい な。

生きてる って、

こんなにも、あったかい。








mamoru.jpg



実は、2か月ほど前から、クラウドソーシングを利用して、
Webメディアの記事作成の仕事を始めました。いわゆる「ウェブライター」というやつです。

クラウドソーシング用の異なるペンネームでやっていますが、
今、防災についての記事作成に取り組んでいます。

この夏の記録的な猛暑、西日本豪雨、台風の多発。
そんな中で、「防災」に関するライティングの募集案件をみつけ、
これだ!と思い、意気込んで応募したのですが、
応募したその直後に北海道の地震を知り、愕然としました。

猛烈な台風が去った矢先に、震度7の大地震。
ひどすぎる、あんまりだ・・・と、
本当に心底、思いました。

なんと言ったらいいのか、自分の無力さを感じずにはいられませんが、
防災について、意義のある良い記事を書いて、
少しでも社会の役に立ちたいと、真剣に、そう思っています。

ものすごく小さなことかもしれないけど、
自分なりに頑張りたい。頑張ろう。頑張らねば!





お盆二日目の明け方のこと。久しぶりに、父の夢をみた。

場所は喫茶店。

母と二人で休憩していると、父が私たちの目の前にやってきて、
「一人で〇〇病院まで歩いて行ってきたよ」と、得意気にそう言うのである。

「えええっ!!!一人で?!」 私は思わず驚きの声をあげる。

現実的なことを言えば、父は足腰が悪く、目も不自由で、
亡くなる10年以上も前から、一人でどこかに行くことなど到底できない体になっていた。


それがどうだろう。杖も持たずに腰をピンと伸ばし、一人でしっかり立っている。
にっこりと笑みを浮かべ、何歳も若返ったかのように、顔の肌つやもよい。

「すごい!すごいよ!! 一人で歩いて行ってきたなんて、すごいねぇ・・・」

私は喜びと興奮を抑えきれず、「すごいね!すごいねぇ・・・」と何度も何度も、
ひたすら同じ言葉をくりかえすのだった。


そんな私の驚きっぷりに満足した父は、
静かに椅子に座ると、コップの水に手をのばした。

「氷、入れようか?」 私がたずねる。

「ああ。そうだな」 いつもの口調で父が答える。

私は氷入れの中から、できるだけ大きな、形の良い氷を選んで、
父のコップへと入れた。

トプン・・、トプン・・・

2つの氷で、コップの水があふれそうになる。

なみなみに入った水を、父はうれしそうに飲んでいる・・・



koppunomizu.jpg




・・・とまあ、こんな感じの夢。
人に話したら、返答に困るような、たわいもない内容の夢だ。

けれど、私にとっては、とてもうれしいものであった。
「〇〇病院まで一人で行ってきたよ」だなんて、
なんとも父らしい、そして私らしい夢だなぁと思う。



父が亡くなって半年くらいの間は、たびたび父の夢をみた。
それは決まって、危篤状態の父が一命をとりとめる、という設定なのである。


「お父さん!お父さん!」と、私が大きな声で呼びかけると、
父が「はい」と返事をし、意識を取り戻すのだ。

体は痩せ細り、鼻には酸素チューブがついたまま。
そんな姿の父と、私は旅行に行ったり、デパートで買い物をしたり、一緒に夜景を見たりする。

そして、自分とともにいる父を、私は夢の中でまじまじとみつめ、
「ああ、よかった。本当に、本当に、よかった・・・」と、
心の底から、振り絞るように、天に感謝するのだ。

そこには、ひとかけらの悔いもない。
私は一切の罪悪から解放され、清らかな喜びに満ち溢れている。
これ以上のしあわせなど、ないほどに。


夢から覚めた後も、しばらくは目をつむっている。
薄れゆく光景を追いかけるように、私は脳裏を隈なく瞬時にたどり、
父が生還するという、奇跡のような喜びの余韻に、ただ一人、じっと浸っていた。


そんなような夢を、いったい何度、みたろうか。
けれど、一年経ち、二年経ち、いつしかぷつりと、みなくなっていた。
自分の心情は何も変わっていないのに、なぜだろう?



それがようやく、満を持していたかのように、再び夢に父が現れたのだ。
お盆二日目の明け方。なんとも不思議な、粋なタイミングである。

もう、痩せ細ってなど いなかった。酸素チューブもしていない。

元気な姿になって現れてくれたことが、私はうれしかった。
とても、とても、嬉しかった。


命は死しても、その存在はなくならない。
むしろ、生きていたころの何倍も、父への思いは、私の中で強まっている。

夢は幻でも、そこで抱いた感情は、本物だ。
これも立派な、父との思い出だと、そう思っている。






bu_10years.jpg



10年目の夏

わたしは 想う。

ぶーちゃんを、想いつづける。

目には 見えなくても、

確かなる、存在の いぶき。

ふれられぬものほど、あたたかい。

偽りなき ぬくもりに、

わたしは やさしく、いだかれている。

とわに。 とわに。






↑このページのトップヘ